花と向き合い続けて四十年余り。
気がつけば63歳になっていました。
手の甲に刻まれた歳月の跡を見つめながら、ふと思うのです。
花を育てながら、実は私自身が花に育てられてきたのではないかと。
今日は少し、そんなお話をさせていただこうと思います。
お茶でも淹れて、ゆっくりとお付き合いくださいませ。
花とともにあった人生の歩み
新潟から東京へ──花屋としての第一歩
昭和36年、新潟の雪深い長岡で生まれた私は、子どもの頃から花が好きでした。
母がよく庭先で菊を育てていて、その姿を見ながら「きれいだなあ」と思っていたのを覚えています。
東京農業大学の短期大学部で園芸を学んだのも、その延長線上のことでした。
卒業後、結婚を機に東京へ出てきたとき、まさか自分が花屋の主になるとは思ってもいませんでした。
人生というのは、本当に不思議なものですね。
嫁ぎ先の花屋「百合草園」を継ぐということ
姑が営んでいた小さな花屋「百合草園」。
谷中の下町にある、昔ながらの花屋でした。
最初は戸惑いばかりでした。
新潟の雪国育ちの私が、東京の花屋で働くなんて想像もしていませんでしたから。
姑は厳しい人でしたが、花への愛情は人一倍でした。
「花は生き物だから、毎日の手入れを怠ってはいけない」
「お客様に渡すまでが私たちの責任」
そんな言葉を、今でもはっきりと覚えています。
試行錯誤の中で見つけた、自分らしい花の在り方
姑から店を引き継いだのは、30代半ばのことでした。
「暮らしと季節をつなぐ花屋」
これが、私が目指した花屋の姿でした。
派手なアレンジメントよりも、日々の暮らしに寄り添える花を。
季節感を大切にした、心に響く花選びを。
お客様一人ひとりの暮らしを想像しながら、花を選ぶことの大切さを学びました。
春には桜や菜の花、夏には向日葵や朝顔、秋には菊や桔梗、冬には椿や水仙。
四季の移ろいを花で表現することが、私の花屋としての信条になっていきました。
花がくれた日々の気づき
花の手入れと、心の手当て
毎朝5時に起きて、花の水を替える。
枯れた葉を取り除き、茎を切り直す。
一見単調に思えるこの作業が、実は私にとって大切な時間でした。
花と向き合うことで、自分の心と向き合うことができたのです。
花の状態を見れば、自分の心の状態も分かるようになりました。
忙しくて心に余裕がないとき、花の手入れも雑になっている。
心穏やかなとき、花たちも生き生きと輝いて見える。
まるで花が、私の心を映す鏡のようでした。
四季の移ろいを受け止めるレッスン
日本には美しい四季があります。
花屋を営んでいると、季節の小さな変化にも敏感になります。
桜のつぼみが膨らみ始める早春の兆し。
梅雨時の紫陽花の色の変化。
秋の七草が教えてくれる季節の深まり。
冬の寒さに負けずに咲く椿の力強さ。
花を通して、自然のリズムを身体で感じることができました。
急がない。
焦らない。
季節には季節の美しさがあるように、人生にもそれぞれの段階の意味がある。
花たちが教えてくれた、大切な人生の教訓でした。
花を通して出会った人、交わした言葉
「お母さんのお見舞いに持って行きたいんです」
「結婚記念日に、妻に花を贈りたくて」
「新築祝いに、何か季節感のある花を」
お客様との何気ない会話の中に、たくさんの人生のドラマがありました。
花は、人と人をつなぐ架け橋のような存在でした。
悲しみを和らげ、喜びを倍増させ、日常に彩りを添える。
そんな花の力を、たくさんの方との出会いを通して実感してきました。
心が折れたあのとき、花が支えてくれた
見失いそうだった自分を、取り戻した瞬間
50代の前半、心のバランスを崩した時期がありました。
忙しさに追われて、自分を見失っていたのかもしれません。
何をしても楽しくない。
花を見ても、美しいと思えない。
そんな日々が続きました。
ある朝、いつものように水替えをしていたとき、ふと一輪の薔薇が目に留まりました。
淡いピンク色の薔薇が、静かに微笑みかけているように見えたのです。
その瞬間、涙が止まりませんでした。
花は、変わらずそこにいてくれる。
私がどんな状態でも、ただ静かに寄り添ってくれる。
静かに寄り添う植物のちから
最近の研究でも明らかになっているそうですが、花を見ることで心理的・生理的なストレスが緩和されるということが科学的に証明されているのだとか。
私は研究者ではありませんが、長年花と過ごしてきた実感として、これは本当だと思います。
花には人の心を癒す、不思議な力があります。
「アクティブ」「癒し」「存在感」「爽快感」「幸福感」
花が与えてくれる心の変化は、本当に多様です。
黄色いガーベラを見ると元気が出る。
淡い紫のトルコキキョウを見ると心が落ち着く。
真っ赤な薔薇を見ると力強さを感じる。
花の色や形が、私たちの心に直接語りかけてくるのです。
花に癒されるということの本当の意味
花に癒されるということは、単に「きれい」だから癒されるのではないと思います。
花が教えてくれるのは、生きることの美しさそのものなのではないでしょうか。
短い命を精一杯咲いて散っていく花の姿。
厳しい環境でも懸命に咲こうとする健気さ。
季節を問わず、それぞれの時期に最も美しい姿を見せてくれる自然のリズム。
そんな花の生き方から、私たちは生きる勇気をもらっているのかもしれません。
「花と暮らす」を伝えるということ
言葉に託す季節の花だより
『季節の花ごよみと暮らしの手帖』という本を書かせていただいたのも、花と暮らす喜びを多くの方に知っていただきたいという想いからでした。
難しいアレンジの技術ではなく、日々の暮らしに花を取り入れることの素晴らしさ。
季節の花を愛でることで得られる、心の豊かさ。
文章を通して、そんなことをお伝えできたらと思いました。
一輪の花でも、暮らしは変わります。
玄関に季節の花を飾るだけで、家に帰るのが楽しみになります。
食卓に小さな花を置くだけで、食事の時間が特別なものになります。
読者とのつながりから学んだこと
本を読んでくださった方から、たくさんのお手紙をいただきました。
「花を飾るようになって、毎日が楽しくなりました」
「季節を意識するようになって、心にゆとりができました」
そんな言葉をいただくたびに、花の力の大きさを改めて感じました。
読者の皆様からも、たくさんのことを教えていただきました。
花を通じて、多くの方とつながることができる喜び。
文章で想いを共有することの素晴らしさを実感しました。
地域に根ざした花屋としての喜びと責任
谷中という下町で花屋を営んで30年以上。
ご近所の方々に支えられて、ここまでやってこられました。
地域の皆様の人生の節目に、花でお手伝いをさせていただく。
それが、私たち地域の花屋の大切な役割だと思っています。
赤ちゃんが生まれたときのお祝いの花束。
成人式、結婚式、新築祝い、還暦祝い。
そして、大切な方を送るときのお花。
人生のあらゆる場面で、花が寄り添ってくれます。
そんな花を通して、地域の皆様とつながっていられることに、深い喜びを感じています。
これからの季節、これからの自分
63歳を迎えて見えてきた風景
63歳になって、人生を振り返る時間が増えました。
花屋として歩んできた道のりを思い返すとき、後悔はありません。
花と過ごした時間は、すべて私の宝物です。
体力的にはきつくなってきましたが、花への愛情は年々深くなっているような気がします。
若い頃は技術や効率を重視していましたが、今はもっと本質的なものを大切にしたいと思うようになりました。
一輪一輪の花と、じっくりと向き合う時間。
お客様とのゆっくりとした会話。
季節の移ろいを心で感じる静かな時間。
そんなことを、より大切にしたいと思っています。
花屋としての”これから”と、人生の”これから”
これからの花屋経営について考えるとき、変わらないものと変わるべきものがあると思います。
変わらないのは、花への愛情と、お客様への真心。
変わるべきは、時代に合わせた花の提案の仕方かもしれません。
最近は、シンプルで自然な美しさを求める方が増えているように感じます。
派手なアレンジよりも、季節感のある素朴な花束。
長く楽しめる観葉植物や多肉植物。
暮らしに根ざした、本当に必要とされる花を提供していきたいと思います。
「生き方としての花」をもう一度見つめ直す
花を育てることは、自分を育てること。
この言葉の意味を、63歳になった今、改めて深く感じています。
花は私たちに、たくさんのことを教えてくれます。
- 忍耐することの大切さ – 花は急いで咲いたりしません
- 美しく年を重ねること – 季節ごとに違った美しさを見せてくれます
- 他者への思いやり – 花は見る人を喜ばせようと咲いています
- 今を大切に生きること – 花は今この瞬間を精一杯咲いています
そんな花の生き方を見習いながら、私も残りの人生を歩んでいきたいと思います。
急がず、焦らず、自分らしく。
花のように、今いる場所で精一杯咲く。
それが、私が花から学んだ人生の歩み方です。
まとめ
花と歩んできた人生の軌跡
振り返ってみると、花は常に私の人生の傍らにありました。
新潟の雪国で過ごした子ども時代。
東京で花屋を始めた若い頃の不安と希望。
試行錯誤しながら自分なりの花屋を作り上げた中年期。
心のバランスを崩したときに花に救われた経験。
そして今、63歳になって改めて感じる花への感謝の気持ち。
人生のあらゆる場面で、花が私を支え、導いてくれました。
植物がくれた小さな光と確かな希望
毎朝の水替えの時間。
季節の花を選ぶときのわくわくした気持ち。
お客様の笑顔を見たときの喜び。
そんな日々の小さな積み重ねが、私の人生を豊かにしてくれました。
花屋という仕事は、決して楽な仕事ではありません。
早朝からの仕入れ、体力を使う水仕事、季節による売上の変動。
でも、花と過ごす時間は、何にも代えがたい宝物でした。
読者への温かなメッセージ:「今いる場所で、花のように」
最後に、このお話を読んでくださっている皆様へ。
あなたも、今いる場所で花のように咲いてください。
派手である必要はありません。
誰かと比べる必要もありません。
ただ、今いる場所で、精一杯自分らしく生きる。
それが、花が教えてくれた一番大切なことです。
そして、もしよろしければ、暮らしに一輪の花を取り入れてみてください。
小さな花でも、きっとあなたの毎日を少し特別なものにしてくれるはずです。
花を育てることは、自分を育てること。
63歳になった今、私はそう確信しています。
皆様にも、花と過ごす豊かな時間が訪れることを心から願っています。
季節はもうすぐ初夏。
新緑が美しい季節です。
どうぞ、お体を大切に。
そして、季節の移ろいを楽しみながら、素敵な日々をお過ごしくださいませ。
谷中の小さな花屋「百合草園」より、愛を込めて。
柚木百合子